【日本四大絵巻】信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)念力パワーがやばい

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奈良と大阪の県境に、信貴山(しぎさん)という霊山があります。

この信貴山、聖徳太子が毘沙門天を大陸からはじめて降臨させた山としても有名です。

※過去記事「信貴山(しぎさん)聖徳太子が毘沙門天を降臨させた霊山」参照

 

この信貴山に朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)というお寺があります。

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※奈良盆地が一望できる展望スポットでもあります。夜景もきれい。

 

このお寺を舞台にした、寺に伝わる絵巻物。

それこそが信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)。

三巻におよぶ物語絵巻です。

じつは日本四大絵巻のひとつだったりします。(四大絵巻のその他は『鳥獣人物戯画』『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』です。)

 

この絵巻のおもしろいのなんの!

念力でいろいろ飛ばすわ、剣の鎧を着た謎のこどもが現れるわ、新潟からおばあちゃん自力で歩いてくるわ…。まぁ詳細は本文で。

 

信貴山縁起絵巻のおはなしは、わたしの統計上、奈良県民もあまり知らないマニアック情報です。こんなにおもしろいのに!

というわけで、これを読めばあなたも奈良マニア!

 

一巻:飛倉(とびくら)の巻

信貴山に住みついた命蓮(めいれん)法師の念力のおはなし

むかしむかし、信濃国(しなののくに:現在の新潟県あたり)に命蓮(めいれん)というお坊さんがいたのですが、ある日命蓮は受戒(じゅかい:仏教の戒律(かいりつ)を授かること。これにより正式の僧侶になれる。)を受けるためにはるばる東大寺へやってきました。

東大寺って、当時からそんなに有名だったんですね。

 

そんなこんなで無事に東大寺で受戒をうけた命蓮。

どうやらこの大和の地がすっかり気に入ってしまったようで、故郷へは帰らずこの地で仏道修行にはげむことにしました。

うむ、その気持ちすごくよくわかるぞ。奈良いいとこだよね。

 

どこで修行をしながら暮らそうかと、あたりをぐるりと見回した命蓮は、はるかかなたにかすんで見える信貴山をみつけました。

こいつは良さげな霊山だ!ということで、信貴山に居を構え仏道修行をすることにきめた命蓮。

お堂をたて、日々修行にはげみながら信貴山の山奥でつつましやかに暮らしました。

 

命蓮はいっさい山からおりず修行にはげんでいたため、必要なときは法力(ほうりき:すごいちから)で山のふもとに鉢を飛ばし、お布施(ふせ)として食物などを入れてもらって暮らしていました。

 

ある不作の年、信貴山のふもとの村の人々は自らが食べるにも困るほど飢えておりました。

そんなご時世だというのに、村の長者だけは自分の蔵いっぱいに米たんまりたくわえ、私腹を肥やしていました。

村人は『少しでいいから米をわけてほしい』と長者にたのんだのですが、長者はいっさい耳をかさず、蔵の扉はかたく閉ざされたままでした。

 

とおく信貴山の上から法力でそれを知った命蓮は、さっそく鉢を長者の家に飛ばしました。

ふわふわと長者の目の前にあらわれた命蓮の鉢をみて、長者は「この鉢め。お前にやるものなど何もないわボケ!」と、鉢を蔵のすみにポイッと投げてしまいます。

そしてそのまま蔵に鍵をかけてしまったのです。

が、

その程度でおとなしくしている命蓮の鉢ではありません。

 

しばらくして、鉢をいれた蔵がみしみしとゆれはじめました。

まわりの村人が何事かとあつまってきて見ていると、なんと次の瞬間、蔵がふわりと宙に浮き上がったのです。

あたりはもう大騒ぎ。

 

長者もなにごとかと屋敷から飛び出てびっくり。

「うちの蔵、浮いとるやんけ!!」

 

そんなこんなで騒いでいると、今度は蔵のとびらがひとりでに開き、中から命蓮の鉢が飛び出しました。

そして鉢は蔵を上にのせて、信貴山へ飛び去っていったのです。

 

なんやあれ!えらいこっちゃ!ということで、急いで信貴山へむかった長者さん。ふぅふぅいいながら命蓮のお堂についてみると、その横に自分の蔵がありました。

長者は命蓮に「うっかり鉢を置いたまま蔵の鍵をしめてしまったもんで、鉢と一緒に私の蔵もとんでいってしまった。蔵を返してくれ。」とたのみました。

 

「飛んできてしまった蔵をもどすことはできんが、中身は返そう。もっていきなさい。」と命連は言いましたが、蔵の中いっぱいの米俵をどうやって運んだものか…。長者は途方にくれてしまいました。

 

それをみた命蓮がいいました。

「ではわたしの力で運んでさしあげよう。まず、米一俵を鉢の上におきなさい。」

 

長者は言われたとおり、米一俵を鉢においたところ、またしても鉢はふわりと浮き上がりました。そしてふもとめがけてピューンと飛んでいきました。

と同時に、ほかの米俵もつぎつぎと浮き上がり、鉢を追うように次々と飛んでいくはありませんか。

 

それを見て長者はまたしてもへとへとになりながら、米俵を追いかけて信貴山をおりていきました。

 

鉢はあっというまにたくさんの米俵を蔵のあった場所にもどしました。ただしそこにはもう蔵はありません。

山のように積まれた米俵をみつけた人々は、よろこんでそれを分けあい、その年の飢えをしのぐことができたということです。

 

最初から村で配ってたらいい人になれたのにね。強欲なのはいけません。

 

延喜加持(えんぎかじ)の巻

命蓮と醍醐天皇の病のおはなし

命蓮が信貴山で修行にはげんでいるとき、みやこでは醍醐天皇が重い病にかかっていました。

たくさんの高僧や神官、陰陽師などが読経(どっきょう)、祈祷(きとう)などを行いましたが病は悪化するばかり。

そんなとき命蓮のたぐいまれなる法力のうわさが家臣の耳にはいり、一度祈祷をたのんでみることになりました。

 

家臣は信貴山にのぼり、『醍醐天皇の病気平癒の祈祷をしに都まできてほしい』と頼みました。

が、命蓮はがんとして山をおりようとはしませんでした。なんてやっちゃ…。

そのかわり、この信貴山から祈祷をするといいます。

 

「しかし、それでは病が癒えたとしてもそれが命蓮の祈祷の効果なのかどうか判断がつかないではないか。」と家臣は反論しました。

すると命蓮がおかしなことを言いはじめました。

 

「私の祈祷で病が癒えたときには、帝のもとに剣鎧護法童子(けんがいごほうどうじ)という、たくさんの剣を身にまとった童子が現れるでしょう。それで私の祈祷かどうかがわかるはずです。」

 

どうにもよくわからんことをいう坊さんだと家臣は思いましたが、それ以上は議論が進みませんでしたので、しぶしぶ都へ帰り醍醐天皇にこれを伝えました。「剣鎧護法童子ねぇ…うむ…。」

 

それから数日たって、醍醐天皇は病床で不思議な夢を見ました。

 

空のはるかかなたから、きらきらと光るものがこちらへ向かってとんできます。

目をこらして見ると、それはたくさんの剣を衣のようにまとった童子でした。

法輪(ほうりん)とともに空をかけています。

そしてその童子はあっという間に帝の目の前に。。

 

『!!』

 

おどろいて目を覚ました醍醐天皇。ドキドキする心臓を落ちつかせて一息ついていると、どうも体の調子がいつもとちがいます。なんと、あんなに苦しかった病がすっかり癒えていたのです。

『あぁ、あれが命蓮の言った剣鎧護法童子だったのだろう。体中に剣をまとっていた。空をかけてわたしのもとへやって来たのだ。』

醍醐天皇はよろこんで信貴山へ使いを走らせ、命蓮に僧侶としての最高の地位とほうびをあたえたいと申し出ました。

しかし命蓮はこれまでどおり信貴山で修行にはげむ日々をおくるから、ほうびも地位もいらないと返事を返しました。

 

これに感心した醍醐天皇は、命蓮の修行するお堂を「廟安穏(ちょうびょうあんねい:朝廷が平穏にある)、守国土(しゅごこくど:国土を守る)、子孫長久(しそんちょうきゅう:子孫が長く続く)」の祈願寺として『朝護孫子寺』という勅号(ちょくごう:朝廷から与える称号)を与えたのだそうです。

 

信貴山朝護孫子寺のなまえはここから来ているのです。マニアック情報!

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<剣鎧護法童子こぼればなし>

ちなみに剣鎧護法童子は毘沙門天のつかいです。

つまり、命蓮が信貴山の毘沙門天に祈願した結果、毘沙門天が剣鎧護法童子を天皇のもとに派遣した、ということですね。

もし信貴山朝護孫子寺に参拝することがありましたら、本堂に入る階段の正面の屋根を見てみてください。小さな剣鎧護法童子がいらっしゃいますよ。マニアック情報!

 

尼公(あまぎみ)の巻

命蓮の姉がはるばる奈良をたずねてくるおはなし

命蓮には一人の姉がおりました。

この姉もまた、命蓮と同じく仏門に入っており、この絵巻では「尼公(あまぎみ)」と呼ばれます。

 

尼公は「大和国の東大寺で受戒してきます。」と出て行ったきり二十年も帰ってこない命蓮を心配して、信濃国(しなののくに)からはるばる大和国(やまとのくに)まで旅をしてきました。

しかし探すにしてももう少し早く出発できんかったんか。もうおばあちゃんやんか。

 

大和国についた尼公は、興福寺、東大寺のあたりで道ゆく人々に弟の消息を聞いて回りましたが、まったく情報は得られず…。

そりゃ二十年も前に受戒した僧侶のことを覚えている人はいませんわな。

はるばる大和国まで来たのにこのままでは帰れぬと、尼公は最後の力をふりしぼって東大寺の大仏に一晩中いのり続けました。

どうか弟の居場所をおしえてください、と。

 

明け方になり、祈り疲れて意識が遠のきかけた尼公。

そのとき尼公の頭に不思議な声がひびきました。

 

『南西の方向をながめてみなさい。すると、かなたに紫の雲のたなびく山がみえるでしょう。そこをたずねてみなさい。』

「!!」

 

はっと我に返った尼公は、『これは大仏様のお導きにちがいない。』と言われたように南西の方向を見てみました。するとたしかに、はるかかなたに紫色の雲のかかった山が見えるではありませんか。

 

それは信貴山でした。

 

 

信貴山に向かった尼公。

ついてみると、そこにはお堂がありました。そのお堂の扉をたたき、尼公はいいます。

「ここに命蓮はおりませぬか。」

すると、

「命蓮はここにおります。」

とお堂から顔をだした顔は、二十年前に別れたなつかしい弟の顔。

「なんとまぁ、どうしてここを見つけたのですか。」とさすがの命蓮もおどろいてたずねます。

その問いには答えず、尼公ははるばる信濃からもってきた衣を命蓮にわたしました。大和に来て以来、たった一枚の衣だけでずっと暮らしてきた(!)命蓮はたいそうよろこびました。

※信貴山は相当さむいです。冬はゴキブリも死ぬほどだと宿坊の尼さんがおっしゃっていました。

 

そんなこんなで、尼公も信濃国には帰らず、命蓮とともに信貴山で仏道にはげむ生活をおくったとのことです。

まぁ歳も歳ですしね。

 

そして尼公のもってきた衣は、その後、命蓮がずっと着ていたためボロボロになってしまったそうですが、命蓮の死後は蔵に大切におさめられました。

その衣の切れ端はお守りとして重宝され、人々が大切に身に着けていたといわれています。

 

そしてその蔵(一巻にでてくる飛倉)も、やがて時がたち朽ちてしまいましたが、その朽ちた蔵の木片もお守りにされたり、毘沙門天を彫って念持仏(ねんじぶつ:携帯用仏像)にされたりしました。

そしてそれを持った人は必ずお金持ちになったということです。

 

以上、信貴山に伝わる、不思議なおはなしでした。

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ABOUTこの記事をかいた人

Fumie Katayama

奈良の戦える女将。 母の影響で幼い頃から民俗学が好きだったものの、マッドサイエンティストに憧れて学生時代はバリバリの理系。[東京農工大学 工学部 有機材料化学科卒][同大学 技術経営研究科 技術リスクマネジメント専攻卒(研究分野:光学ポリマーアロイの複屈折制御)]武道も好きで、テコンドー(ITF)をしていたことも。[学生テコンドー全国選手権大会 トゥルの部二連覇(2008)(2009)、スペシャルテクニックの部優勝(2009)]就職を利用して一度住んでみたかった奈良県へ移住。古都奈良で1400年間言い伝えられてきた伝説、伝承、信仰、民俗芸能など生きた文化を目の当たりにし、眠っていた民俗学好き魂が再燃。『こんなにあやしくておもしろくてディープな奈良をもっと知ってほしい』という想いから、現在は"奈良のあやしくてかわいい宿"を開業するべく準備中。