【役行者伝説】空を飛び鬼を使役した奈良の仙人:前編【修験道】

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さぁさぁ今回は爆裂ながい記事になる予感。

奈良のスーパー仙人、役行者のおはなしを楽しく書いていこうと思います。

 

役行者は各地に伝わる伝説が多すぎてまとめるのに一苦労でしたよ。

絵巻もたくさんありますし。

 

どれもこれもそのまま書いてると矛盾が生じるので(伝説あるある)、
私の好きな部分を矛盾のないようにチョイスしておとどけします。

余力があれば修験道とは何かっていうところも少し紹介したいな。

 

ではでは、はじめましょう。

野に伏し、山に伏し、我、神仏とともにあり!
役行者伝説!

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役小角(えんのおづぬ)

時は634年。

大和国茅原(ちはら:現在の御所市茅原、吉祥草寺付近)の加茂家に
役小角(えんのおづぬ:のちの役行者)は産まれました。

 

加茂家は天皇とかかわりの深い家で、
朝廷から「(えだち)」の姓を与えられていた権力のある家でした。

もともとは出雲からの移住者で、さらにさかのぼると朝鮮からの渡来人だったそうですよ。

やっぱり渡来人つよいなぁ。
役小角は幼いころから勉強熱心で、成人するころにはすっかり博識で名が通っていました。

 

30歳になって、役小角は葛城山(かつらぎさん:現在の金剛山、葛城山などの一帯
で山岳修行をはじめます。

洞穴に住み、泉の水で身を清め、藤葛(ふじかつら)をまとい、松の実を食べ、
夜は苔の上に寝て暮らしたといわれています。

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そんな生活が30年もたったころ、
役小角は孔雀明王(くじゃくみょうおう:毒蛇を食べるクジャクを神格化したもの。かっこいい。
から、仙術(せんじゅつ:すごいちから)をさずかります。

 

ここから役小角無双のはじまりとなります。

 

五色の雲にのって自由自在に空を飛び、鬼神をしたがえて家来のようにつかい、
土俗の神までも使役(しえき:付き従わせること)し、
まさに人知を超えた力を自由にあつかうようになります。

それを見た人々は、敬意をこめて彼を役行者と呼ぶようになりました。

 

私個人としてはこの無双ストーリーが一番すきなところなので詳しく書いていきますね。

 

 役行者と箕面の滝

役行者が箕面(みのお:現在の大阪府箕面)の滝で修行をしていたときのこと。

役行者はどういうこわけか龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ:もとはインドの高僧。初期大乗仏教を確立した人。
を感得(かんとく:感じ悟ること)し、ご本人から直接真言の奥義について直接教えてもらえたんだそうです。

 

この部分、役行者絵巻ではすごくサラッと書かれているのですが、

もっとつっこんでよ!

って全力で思いました。

 

 役行者と吉野山

また、役行者が吉野山(よしのやま:現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山)で修行をしていた時のこと。

今度は釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩を感得しますが、なんと役行者、イチャモンをつけます。

その理由は「顔がやさしすぎる」

そういうわけで、そのあとその三人の仏さまは怖い顔の神さま『蔵王権現
に姿を変えて再び出てきたくれたのだとか。

やさしいね。

それが今の修験道の神、蔵王権現です。

 

※その蔵王権現をはじめて感得したところに作られたのが金峯山寺。
この伝説についてのさらに詳しい話はこちらに書いています。

 

 役行者と一言主

今度は葛城山に戻って修行をしていたときのこと。

役行者はいいことを思いつきます。

「そうだ、ここから吉野山までみんなが簡単に行けるように、葛城山と吉野山をつなぐ橋をつくろう。

現在人もびっくりの大規模土木工事です。

 

そこで、役行者は使役していた葛城の土俗神(どぞくしん:その土地の神)、
一言主の神(ひとことぬしのかみ)に石橋をかけるように命令しました。

 

一言主の神は、正直まったく気乗りしないし、むしろ超絶やりたくなかったのですが、
役行者にはさからえずしぶしぶ承諾しました。

 

なぜ一言主の神ともあろう強い神が橋一つかけるのをそんなに嫌がったのかというと、
人に自分の姿を見られることがとても嫌だったのです。

※一言主の神は、とても醜い容姿をしていると伝えられています。

 

一言主の神はそれから毎日、人目のない夜にだけ出てきては葛城山から吉野山へ向けて橋を作っておりました。

しかしそんなペースでは一向に作業は捗りません。

 

それに気づいた役行者は一言主の神に
「遅すぎる!そんなことではいつまでたっても橋が完成しないではないか。ちゃんと昼間も作業せい!」
と叱るのですが、一言主の神はかたくなにそれをこばみました。

とうとう腹を立てた役行者は呪術で一言主の神を谷へ縛りつけてしまいました。

かわいそうに…。

 

そういうわけで葛城山から吉野山までの大規模土木工事の夢はついえてしまったということです。

金剛山にはそのとき一言主の神が積んだ岩と伝わる苔むした大岩が今でも残っています。

 

 役行者と前鬼後鬼

葛城山脈をずっと北上していった先に、生駒山(いこまやま)があります。

そこにも役行者の伝説が残ってまして、奈良では有名な部類のお話です。

 

当時、生駒山中にある暗峠(くらがりとうげ:奈良から大阪へ抜ける主要な峠道のうちの一つ
に土俗の二鬼が住んでおり、よく人をとって喰っておりました

それを聞いた役行者は早速生駒山へ行き、その二鬼を折伏(しゃくぶく:悪いものこらしめて仏道に従わせること)し、
ついでに使役しました。

 

この二鬼が有名な役行者の前鬼後鬼(ぜんき・ごき)です。

奈良県内にたくさんある役行者の像の両脇にはたいていこの二鬼がいます。

 

この二鬼は役行者の説教をきき、自らの行いを悔い改め、従者としてよく働いたそうです。

最終的に役行者はこの二鬼に
「この地で修験者たちの助けをして暮らしなさい。」
と言って解放するのですが、それが今の下北山村(しもきたやまむら)だと伝えられています。

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この前鬼後鬼、じつは夫婦なのですが、解放されたのち五人の子をつくりました。

その名前を五鬼助(ごきじょ)、五鬼継(ごきつぐ)、五鬼上(ごきじょう)五鬼童(ごきどう)、五鬼熊(ごきくま)といいました。

ちなみにこの子孫、今でも同じ集落に住んでおり、その集落を『前鬼』といいます。

 

そして前鬼には明治中期まで、その五家によって
五つの修験者のための宿坊(しゅくぼう:修行しにきた人や参拝者のための宿)が営まれていたそうです。

というのも、明治の初めに修験道禁止令が幕府からおり、一時修験道はなくなりました。

その時におそらく多くの修験者の宿坊がたちゆかなくなってしまったのだと推測します。

残念なことですね。

 

今では唯一、五鬼助の61代目が『小仲坊(おなかぼう)』という宿坊をされいます。

そう、今も残ってるんですよ!

宿坊も五鬼助の名前も現代まで残っている、というのはものすごいことですよね。

 

伝説と史実がごちゃまぜになっている奈良ならではの、不思議な生きる伝説です。

※ちなみに前鬼とその子供たちは下北山村の前鬼集落に住み、後鬼は天川村の洞川(どろかわ)に住んだとも言われています。

 

そんなこんなな役行者無双。

ここらで一度休憩して、【役行者伝説】空を飛び鬼を使役した奈良の仙人:後編【修験道】につづきます。

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ABOUTこの記事をかいた人

Fumie Katayama

奈良の戦える女将。 母の影響で幼い頃から民俗学が好きだったものの、マッドサイエンティストに憧れて学生時代はバリバリの理系。[東京農工大学 工学部 有機材料化学科卒][同大学 技術経営研究科 技術リスクマネジメント専攻卒(研究分野:光学ポリマーアロイの複屈折制御)]武道も好きで、テコンドー(ITF)をしていたことも。[学生テコンドー全国選手権大会 トゥルの部二連覇(2008)(2009)、スペシャルテクニックの部優勝(2009)]就職を利用して一度住んでみたかった奈良県へ移住。古都奈良で1400年間言い伝えられてきた伝説、伝承、信仰、民俗芸能など生きた文化を目の当たりにし、眠っていた民俗学好き魂が再燃。『こんなにあやしくておもしろくてディープな奈良をもっと知ってほしい』という想いから、現在は"奈良のあやしくてかわいい宿"を開業するべく準備中。